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コラム 牧師の書斎から

2016年8月14日 澤村信蔵

「いろいろ定めのために私たちに不利な、いや私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神は、この証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2章14節)
 私たちが、誰かに負債を負っているとすると、それを完全に返済するまでは、債務の取り立ては終わりません。その契約は完全に履行されなければ、終わることはないからです。
 私たちが罪を犯した時も同じです。罪を犯すという事は、借金を負ったのと同じです。必ずその借金を返済、罪の償いをしなければなりません。神様は、罪をそのまま見過ごしにすることができないほど聖いお方だからです。そして、神様が赦さないというだけでなく、私たちも罪の償いをしない間は、良心の呵責に苦しむのです。どこか心がひっかかっているのです。忘れたかのように思っても、自分が忘れていないのです。私も洗礼の前に悔い改めを一人神の前にしましたが、祈るうちに、あれも、これも、それもと、次から次へと出てきました。もう数年忘れていたことなども思い起させられました。心の中にあったんですね。
 でも、そんな私たちのためにイエス様は、十字架にかかられ、私たちの罪の贖いを十字架の上で果たして、神の御前でなだめの供え物になってくださったのです。十字架は、私たちを責め立てる良心や、また私たちを責めたてるサタンの債務証書をも、釘付けにしていると、聖書は明確に語るのです。債務証書が十字架に釘付けにされたということは、もう、その債務証書は、支払い済みのただの紙切れに代わったということです。だからもう、私たちを責めるものは何もないのです。完全に処理済みの債権だからです。だから、この十字架の福音を信じている者は、いつまでも、自分の過去の罪やあやまちを悲しみ、悩んでいる必要はないのです。いや、悩むどころか、主イエス・キリストの十字架によって、罪が赦され、すべてのものから解放されたことを知り、大いに感謝するのです。そして、この十字架が与える喜びが、内に溢れてくる時、私たちはこの地上においても、常に勝利することができるのです。