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コラム 牧師の書斎から

2016年11月20日 澤村信蔵

先日、「いのちの声に聴く…ほんとうの自分になるために」(パーカー・J・ハルマー著 いのちのことば社)という本を読みました。自分は、本当に自分の人生を自分のものとして生きているだろうか、天職とはなんであろうかということについて、多くの戦いを経験した著者が書かれたものです。3章「道が閉ざされたとき」に、何が自分の道なのか、どうすれば「道は開かれる」のか分からずに悩む姿が描かれています。そして、もうどうすることも出来ず、1人の老女に相談します。どうしたら、道は開かれるのか・・・その問いに、彼女は答えます。「私の前で道が開かれたことはありません。」すごくショッキングな言葉です。道が開かれないとすれば、どうしたらいいのでしょう。でも、彼女はさらに続けます。「でも、多くの道は私の背後で閉ざされたわ。それが導きと同じ結果をもたらしてくれました。」この言葉は非常に考えさせられることばでした。人生で起こらなかったことから、実際に起こったことと同じくらいの多くの導きを感じることができるのだということです。目の前に開かれた道からは、可能性を感じることができますが、閉ざされた道からは、自分の限界を知ることができるのです。そして、限界を知ると、道は自ずと開かれていきます。一つの扉が閉ざされたなら、反対に一つの扉が開かれているからです。でも、時に私たちは、閉ざされている扉を叩き続け苦しみ続けているのではないでしょうか。道が開かれないで苦しんでいたり、不安があるとすれば、少し立ちどまってはどうでしょうか。自分の限界を知り、叩くことをやめ、方向転換をして、扉に背を向けて、前に広がっている現実に目を向けてみましょう。閉ざされた扉は、私たちがその部屋に入れないように立ちはだかりますが、逆の見方をすると、その扉に背を向けるとその部屋以外には、現実の世界が目の前に広がっているということです。もし方向転換できれば、主が用意された道をそこに見ることができるのです。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)