ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2016年12月18日 澤村信蔵

 先日、あるクイズ番組を見ていたら、2時の方向にバレンタイン、11時の方向に勤労感謝の日、では、12時の方向は何かという問題がありました。その答えは、クリスマスイブです。何でそうなるのは考えてみて下さい。なるほどと思わされたと同時に、答えがクリスマスイブってすごいなと思いました。皆がクリスマスがいつか、イブがいつか知っているのです。でも、多くの人は、その中心であるイエス・キリストのいないクリスマスをお祝いしています。

学生時代、クリスマスをサークルの友人たちとお祝いしました。その時、友人からクリスマスがどういう意味なのか皆の前で話してと言われたのです。最初に感じたのは、恥ずかしさです。少しの間しか準備できなかったということもあるのですが、何をどうしたらいいのか分からず、クリスマスの聖書の箇所を読み、このように主イエスは生まれられたのですと言うのが精一杯だったことを思い起します。今だったら、もう少し大胆に語るだろうなと思います。本当に惜しいことをしたなと思います。でも、家に帰ってすぐに周りの雰囲気(特に女の子たちの目)などが気になって、その場の雰囲気を壊さないことしか考えないで、イエス様のことをお伝えしようということが一番ではなかったことに気付かされました。イエス様は私のために、神の御姿まで捨ててくださったのに、私は恥ずかしさや気まずさを覚えてしまって大胆になれなかったのです。本来だったから、私がイエス様のことを伝えることを恥ずかしいと思うのではなく、イエス様が、こんなやつに伝えられるなんて恥ずかしい。絶対にやめてくれと言われてもおかしくないと思います。でも、イエス様は私たち一人一人に、ご自分を伝えることを委ねてくださっているのです。その時から、機会があればイエス様のことをお伝えしたいと心から願うようになりました。今、多くの人がクリスマスをお祝いしていても、主人公がいないクリスマスをお祝いしているのです。その人たちにイエス様のことをお伝えることこそ、イエス様が私たちに委ねてくださった使命なのです。