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コラム 牧師の書斎から

2017年1月29日 澤村信蔵

今祈祷会ではヨブ記を読んでいます。東の国で一番の金持ちであったヨブが、試練に会い、すべての財産と、10人の子供たちを一度に失ってしまいます。その後、さらなる試練が襲い、体中に悪性の腫物ができてしまいます。友人たちが慰めにやってきた時には、7日間も口をきけないほど、その状況はひどいものでした。そこから友人たちのヨブの会話というのでしょうか、討論、激論が始まるのです。ヨブにこんなことが起きたのは、ヨブが悪いから、息子たちが悪かったから、何か悪いことを隠しているのではないかという執拗な友人たちの責めに対して、ヨブが応えていくということがずっと続きます。その中で実は不思議なことが起きていきます。友人たちは基本的にずっと立場は変わりません。いつもヨブを責め続けます。でも、ヨブは、少しずつ変わっていきます。友人たちに文句を言っていたかと思うと、その矛先が神に向くのです。そして、神に自分の思いをぶつけていくのです。時には、こんなことも言います。(私なりの意訳ですが。)「神様と私は違い過ぎる。あなたは偉大で全能で。でも、私はちっぽけで有限で。それなのに、神様の基準で重箱のすみをつつくように裁かれたら、それはもうどうしようもないですよ。ああ、私と神様の間に立ってくれる仲裁者がいたらなあ。」(ヨブ記9章 特に33節)そして、14章ではこんなことも言います。「木は、死んだと思っても水が与えられると行き返る。でも、人間は行き返ることはない。もし、人間が行き返ることができたら、私はどんな試練でも耐えることができるのに」(特に14節)この時点では神が応えることはありませんでした。でも、この試練の中のヨブの問い、またヨブだけでなく、人がたどり着く根本的な問いかけである神と私との間に仲裁者がいたらという願い、また、行き返ることができれば、試練を乗り越えるのにという願いに対して、応えてくださったのが、主イエスの十字架と復活なのです。そして、私たちと神との仲裁者、また、よみがえりのいのちを与えてくださったのです。