ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2017年5月7日 澤村信蔵

ユダヤ人のジョークにこんな話があります。死を前にした大金持ちが、資産を天にもって行きたいと必死に神様に祈りました。すると天使が現れて、資産を天にもって行くことはできないと告げます。でも、あきらめきれないので、涙ながらに懇願すると、何と天使はスーツケース一個だけならと例外的に許可をしてくれました。そして、喜んだ金持ちは、スーツケース一杯に金塊を詰め、そのスーツケースを横に置き、安らかに召されました。天国に行って、重い荷物を引きづりながら、天国の門へ行くと、そこには天使がいました。特別許可をもらっていると伝えると、天使が怪訝な顔をするのです。不安そうな顔をしていると、天使が一言、「どうして、わざわざ床材のようなものを持ってきたんですか」
天国においては、都の大通りでさえも、透き通ったガラスのような純金である(黙示録21章21節)とありますが、金でさえも、大通りの床材なのです。私たちがこの地上で価値があると思っているものでさえ、天においては価値がないというか、そこら中に溢れているということなのでしょう。財産は天においては意味がないものです。では、私たちが一番大切にしないといけないことは何なのでしょう。私たちに価値があること、それはイエス様が言われています。「ただ、あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10章20節)それは、何より自分の名が天に記されていること、救われているということです。この地上の宝である金でさえも、床材となって、価値がないものとされるのが天国です。それは、金の価値がなくなるのではなく、神のそばにあることが途方もなく価値があるということです。その天国に入ることができるということこそ、私たちが最も価値あるものとすべきであり、また最高の喜びなのです。礼拝は、天国の前味とも言いますが、今この世にあって、神のそばにあることを覚え、天に名が記されて自分が救われている喜び包まれる時です。今日も主に心から礼拝をささげましょう。