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コラム 牧師の書斎から

2017年5月21日 澤村信蔵

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)安息日は、神様が天地万物を六日間で創造し、その働きを完成されたので、七日目は休まれたことから来ています。そして、神様は、ご自分の選ばれた民に、その契約のしるしとしてこれを守りなさいと言われました。ユダヤ人にこのおきてが与えられたのは、奴隷として休むことなく労役に服していたエジプトから出てきたばかりの時で、安息を守ることは彼らにとって、奴隷から解放され自由にされたことを意味します。だから、彼らはその時からずっと守ってきました。約束の地から離れ流浪の民になり、迫害を受けても、どんなことがあってもこれだけは死守したことによって、ユダヤ人がユダヤ人として生きることができたとも言われています。だから、ユダヤ人の格言には、「安息日がイスラエルを守った」というものまであるそうです。でも、神様はこの日働いてはならないとは言われましたが、その内容が何か事細かく言われることはありませんでした。だから、生活の細かい場面において、何をどう適用していくのかはラビたちが解釈して決めていきました。そして、そのしきたりがかえって、彼らの重荷になってしまっていることを指摘し、彼らと対立したのがイエス様です。
でも、週に一度、安息日を守ることは本当に大切です。その生活を通して、神の御計画の中にある平安を私たちは肌で体験することができるからです。先日も、ある看護士の方の話を伺いましたが、後輩がもう一杯一杯で何でこんな仕事をしているのか分からなくてもうやめたいと愚痴をこぼしたそうです。大変な職場の中で、患者さんからも、多くの要求があり、上司からも言われ限界を覚えたそうです。実際にその方だけでなく、肉体は休むことなく、それに伴い心も休むことなく働いている現状があります。神の救いを多くの人が体験できないのは、休むことなく働いているからかもしれません。どんなに必要があったとして、ふと立ち止まる。そうすることによって、神が働いておられることに気付くのではないでしょうか。