ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2017年7月2日 澤村信蔵

「あなたの神、主は、地の面のすべての国民の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民の中で最も数が少なかった。」(申命記7:6~7) 
 先日、母に会ってきましたが、母はだいぶ心が落ち込んでしまっています。そして、自分で解決を出来ない問題に取り囲まれて、「何故?」という疑問で頭が満たされてしまっています。「何故、私はこのことができないんだろう?」「何故、あんな失敗をしてしまったんだろう?」「何故、あんなこと言っちゃたんだろう?」「何故、私はあの人のようではないんだろう?」といろんな何故という質問で、自分を苦しめてしまっていました。そこから抜け出したいと思いつつ、何故から離れられないのです。
 実際、私たちにもいろんな何故があります。そして、「何故?」と問い続けることは、私たちにとって益にならないことが多いですね。何故なのか・・それこそ、天国に行かないとわからない何故も山ほどあります。そして、「何故?」と問いかけることによって、自分の価値を求めて、もがき苦しんでしまっています。実は、何故の答えが本当に欲しいわけではないのです。自分の価値があるかどうか、そのことを知りたいのです。
 そういう私たちに神様は言われます。「わたしはあなたを選んで、わたしの宝とした。わたしはあなたと恋い慕っている」そして、そこには何故に答える理由はありません。イスラエルの民が小さくても選ばれたように、私たちがたとえ自分では小さい存在だと思っていたとしても、また、自分を見ると希望が持てないような状態であったとしても、神は、私たちは選んでくださるのです。
 私たちは、神様が恋い慕い、ご自分の宝とするほど価値があるものなのです。たとえ自分では気づいていなかったとしても、神様の目から見たら尊い価値が私たちにはあるのです。