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コラム 牧師の書斎から

2018年4月22日 澤村信蔵

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」(マルコ4章1~9節)ここには、種蒔きのたとえが記されています。当時のパレスチナの種蒔きは、農夫があらかじめ耕しておいた畑を歩きながら、抱えている袋から種を蒔き散らして行くというやり方です。だから、道端や石のあるところ、またいばらの中に落ちることもよくありました。でも、種を蒔く人はそんなことは気にも留めることはなく、ただ畑の中に落ちた種しかたまにはなかったと思います。でも、イエス様はそこに目を留められるのです。落ちるのはいろんなところがあると。そして、さらに、ここで出てくる種というのは、ギリシャ語では全部単数です。あえて言うならば、一粒の種です。イエス様は様々な地に落ちることを話されながら、一粒の種のことを考えておられました。たくさんの種を考えていると、効率を考えて、少しの無駄は考慮に入れることができるでしょう。でも、一粒の種に焦点を当てると模様は変わってきます。どこに落ちるかそれによって大きく結果が異なるからです。何割が実を結ぶということではなくて、ゼロか一かの世界だからです。一人の人の救いという観点で見ると、確かに救われるか否かそこには大きな隔てがあるわけです。それとともに、4分の3が実らないように思いますが、実際は、ほとんどの種が畑に落ちるのです。イエス様は、多くの実を結ばない実例を挙げながらも、願っておられたのは、この一粒の種が、聞いている一人一人のうちで芽を出し、30倍、60愛、100倍の実を結ぶことです。
今日も、私たちは大切な神の言葉を聞きます。イエス様が期待しておられるのは、まさに今日の一粒の種が私たちのうちに実を結ぶことです。今日語られるみ言葉を聞いて行う者とさせていただきましょう。