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コラム 牧師の書斎から

2018年5月6日 澤村信蔵

「あなたがたの体を神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい」ローマ12章1節
5月3日は憲法記念日でしたが、憲法改正が今論議されています。特に問題になっているのは、憲法9条です。自衛隊をはっきり明記し、何ができるのかを規定しようとしているのだと理解しています。存在意義を定義しようということでしょう。でも存在意義は、他者から定義されるものではありません。自らのうちに存在意義があり、内側からあふれるものであれば、何があってもゆるぎないものです。
それが、Passion(情熱)の力です。誰かに規定されるのではなく、自分は何があってもやりとげるというPassionがあれば、誰も奪い去ることはできません。そういう意味で私たちもこのPassionをもって自らの仕事、奉仕をしていきたいと願うのです。聖書のいうPassionの真の定義は、キリストの受難(Passion)であり、誰かのために自分の自由に犠牲にすることです。冒頭のみ言葉でパウロはそのことを表しています。私たちは神の前に罪を犯し赦していただくささげものではなく、自発的に神に従うことを意味するささげものを持ってくるのです。それは、自分のすべての所有物はあなたのものですという神への情熱を表すことです。また、生きた供え物と書かれています。これは矛盾です。供え物は通常死んでいます。しかし、ここには「生きたままで供え物になってほしい」という神の願いがあるのです。自分の利益に対しては死に、神のためは生き続けるということでしょう。これこそ神が私たちに求めている情熱です。そのために主はご自分のいのちを犠牲にするというPassionを示してくださったのです。イエス様は、自分のためではなく、私たちのため、天の父のために情熱を燃やされました。私たちはその情熱を受けて、感化されてこの世に出て行くのです。私たちもこの情熱を受けて自分のためではなく、神のためにという情熱をもってこの世に出て行き、神様が与えてくださったそれぞれの場で神を証しするものとさせていただきましょう。