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コラム 牧師の書斎から

2018年7月日 澤村信蔵

 「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3章13~14節)
サッカーのW杯で日本チームが決勝トーナメントに進出しました。ただ、最後は議論を湧き起こした試合内容でした。1対0でポーランドに負けているにも関わらず、点を取りに行こうとはせず、ボールを回して時間を消費した姿勢があまりにも消極的だと批判を浴びたのです。でも、それは、同じグループリーグの同じ時間に行われていたもう一つの試合の途中経過から、このままで行けば決勝トーナメント進出できるとのことで無理をしないという選択をしたのです。いうなれば、試合には負けても、決勝トーナメント進出という一番の目的を達成するための戦術だったのです。結果として決勝トーナメントに進めたわけですから良い作戦だったと言えます。
 私たちの人生にも同じことが言えるかもしれません。私たちは日常生活の中で、試合をしているわけではありませんが、様々な戦いをしています。中には、どうしても負けられない戦いもあるでしょう。誰かよりも先に出世したいとか、今月の目標の数字を達成したいとか、日々いろんな勝ち負けがあるわけです。時には、勝つことに必死のあまり、ルールを破ってでもという誘惑があり、時には実際にやってしまうこともあるかもしれません。でも、私たちの本当の目標はどこにあるのでしょう。冒頭のみ言葉のように私たちの最終的な目標は、神の栄冠ではないでしょうか。とすれば、馬鹿にされたり、恥を見たりということがあり局所的な戦いにおいては負けたとしても、最終的に神の栄冠が得られたら、それで十分なのです。逆に、この地上ですべての戦いに勝てたとしても、神の栄冠を得ることが出来なかったら何の意味もないのです。