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コラム 牧師の書斎から

2018年10月14日 澤村信蔵

昨日、墓前礼拝が行われました。日本人は、先祖を大切にします。私たちは、先祖崇拝はしませんが、先に天に帰られた先輩たちの信仰の歩みを振り返りつつ、感謝をささげ、また、私たちもそのあとに続いていくことを覚えるために墓前礼拝をおこなっています。先祖を大切にする日本人ですが、死を話題にすることは余り歓迎されません。そして、葬儀の風習の中には、故人がこの世に戻ってこないことを目的にされるものまであるのです。最後に棺にくぎを打ったり、打つ真似をしたりすることがあります。あれは、死者という怖い存在、穢れた存在が、この世に戻ってこないようにとの意を込めて、柩に釘を打って蓋が開かないようにするという意味もあるそうです。火葬場への行きと帰りの道はわざわざ別のルートを通るのも死者の霊がついて来ないようにという意味があるそうです。
パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1章21節)と語りました。パウロにとって生きることは、キリスト抜きには考えられない、キリストがすべてでした。でも、たとえ死んでもそこには主イエス・キリストがおられる。今度はこのお方と鏡にぼんやりうつるような関係ではなく、もっとリアリティをもって顔と顔を合わせて相見ゆることが出来るのです。私たちにとっては死でさえも汚れでもなく、恐れでもないのです。なぜなら、どんなときにも主がともにおられるからです。そして、いつの日か先に天に帰られた方々と再会することが約束されているのです。