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コラム 牧師の書斎から

2019年1月20日 澤村信蔵

「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。」(ヨハネ6章11節)
 私たちは、足りないとか、不足するということに非常に敏感です。すべての面で満たされていることを求めます。でも、人間と言うのは、もともと足りないものなのかもしれません。哺乳類は、生まれてすぐに立ち上がることが出来ます。でも、人間の赤ん坊は立ち上がることが出来ないのです。すぐにどころか、半年から中には1年くらいかかる子供もいます。でも、完全でないということは、神様からの恵みでもあるのです。赤ん坊を手間暇かけて育てるという愛情を神様は特別に与えてくださいました。乳飲み子の小さな声を母親はいつも逃さないように造られているのです。そして、同時に、愛を育む訓練もしてくださいます。手をかけないと生きていけない存在があることによって、神によって与えられた愛がさらに成長して行くのです。完全でないことによって、子どもにとっても、親にとっても、様々な面で成長することが出来るのです。
 これはすべての面において言えます。イエス様は、男の人だけで5千人の人にパンを食べさせた時、与えられたパンは5つ、魚が二つだけでした。でも、このパンが足りなかったからこそ、神のみわざが起きたのです。私たちにとって、不完全であるということは、神によるわざが働く余地があるのです。そして、その不足が大きければ大きいほど神の偉大なわざが起こるのです。私たちは、今ある現状に満足していますか?足りなさがありますか。足りないとしたら感謝です。なぜなら神がそこに働いて、私たちを満たし、成長させてくださるからです。