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コラム 牧師の書斎から

2019年2月17日 澤村信蔵

「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」(マタイ28章16~17節)
先日、ある方とお話をしました。その方は、自分に自信がなかったり、少し被害妄想を感じていたりする人でした。実際、私も含めてですが、自分に自信がない方は結構います。そういう方にもぜひ知っていただきたいことがあるのですが、それは、イエス様があなたを見ている見方は、自分の見方とは全く違うということです。冒頭の箇所は、マタイの福音書の最後にあります大宣教命令「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」が誰に向けて語られたかを示す言葉です。大宣教命令は、イエス様の十字架の成否がこれにかかっていると言っても過言ではない命令です。もし、弟子たちがイエス様の十字架と復活と伝えなかったら、イエス様が払われた犠牲は無意味になってしまいます。まさに、十字架が意味あるものとなるかならないかを左右する大切な命令なのです。皆さんは最も大切なものは誰に託しますか?最も信頼のおける人、間違いのない人ではないでしょうか?でも、イエス様は、まさに、ある者は疑ったといわれる人にも託してくださるのです。疑う気持ちを持っているようなものをもイエス様は信頼し、期待していてくださっているのです。それは、自分自身の評価とは全く違うのです。私たちは自分の評価以上に、イエス様の評価に耳を傾けていきましょう。あなたは、イエス様にとってはこの最高の命令を託すにふさわしい人なのです。