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コラム 牧師の書斎から

2019年3月3日 澤村信蔵

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれます。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6章37節)赦せない人がいると相談を受けました。それも身内だからたちが悪いのです。全く交わりがないのではありません。むしろ頻繁にお会いしている方だと思います。でもというのでしょうか、だからこそ赦せないのです。お話を伺いながら、心の中には、すでに赦しの心は芽生えているし、交わりも少しずつ回復していることがわかりました。でも、最後の最後自分の心が赦したくないのです。確かに、赦しをおこなうことは何か相手に許可証を与え、相手を得せるように思います。相手が得すると思うから踏み出せないのです。でも、冒頭のみことばは語るのです。私たちが赦して得をするのはだれか。それは私たち自身なのです。なぜなら、自分も神によって豊かに赦されるからです。そして、もし私たちが赦さなければ痛みを覚えるのは自分自身です。過去の出来事に縛られて、心が苦しくなり、痛むのです。でも、実際に傷を与えた相手は、何の影響も受けないのです。でも、そんなこと百も承知であってもできないのが私たちです。だからこそ、主イエスが見本を示してくださったのです。十字架にかかりながら、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と祈られたのです。私たちは、そのイエス様の姿を覚えるとき、私たちも祈ることができるのです。「父よ。彼を(彼女を)お赦しください」と。そうするならば、神が私たちの心に赦しの心を与えてくださるのです。