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コラム 牧師の書斎から

2019年8月4日 澤村信蔵

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6章34節)
 心配ってするなと言われてもしてしまうものかも知れません。でも、どうして心配するのでしょう。それは、私たちが幸せを求めるからです。でも、この幸せが厄介者なのです。幸せは、ふとしたことで失われます。失ってしまえば、失望、絶望へとつながります。絶望というのは、もう望みがないわけですから、そこには光がありません。だから、いつ失うかと、不安になり、心配してしまうのです。いろんな心配をします。時には、うまくいきすぎて、心配することがないということまで心配する始末です。幸せを追い求める生涯に、心配はつきものです。でも、私たちが求めるのは、幸せではなく、神が与えてくださるものを感謝して受け取る喜びの世界です。「いつも喜んでいなさい。」と、どんなことが起きても、変わることのない喜びです。私たちが、自分の力で何かをコントロールできるかのように、明日のことを心配するのは、少し傲慢なのではないでしょうか。こんなに科学が進歩する時代にあっても、私たちはそれこそ、どんな生物をも生み出すことは出来ないのです。私たちの力が及ぶ領域よりも、及ばない領域の方がはるかに多いのです。先週は暑かったですが、天気を知ることは出来ても、もう少し涼しくしてほしいと願っても、それは不可能なのです。だから、私たちは自分の力の及ばないことも全て神に委ねるのです。明日のことは、明日が心配するから、いや、神が心配してくださるから私たちは心配しなくていいのです。ただ、神が与えてくださる状況、環境を心から喜ぶのです。