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コラム 牧師の書斎から

2019年9月1日 澤村信蔵

先日、ぶどう畑を見てきました。一つは、ワイナリーのための専用農場、もう一つはぶどう狩り用の農場です。ぶどう狩り用の農場で、ぶどう狩りもやってみました。高さもずっと一定で、私にとっては少し低すぎるように感じましたが、ぶどうの実が垂れ下がって、ちょうど収穫がしやすくなっているのです。たくさんの木をそれぞれ時期に合わせて収穫できるように植えてあるなど様々の工夫を見ました。でも、その前に見たワイナリー用の農場は全く別でした。山の斜面に作られていました。一見緑の芝生のように一面綺麗にできているのですが、ぶどうが生えているところは斜面で、そこの下を車などで収穫が出来るように少しの部分だけまっすぐにしているのです。斜面の方がいいのは、日照時間を確保できるのと、水はけがいいからだそうです。ぶどうの実にとって最高の場所にするための労苦がなされています。軽トラなどは、人が載る所の屋根は切って小さくしてしまっていました。そうしないと中に入れない状況なのです。それを見ていて、感じたのは、ぶどう狩りのための農場は、収穫する人が収穫しやすいそれを第一にしているのですが、専用農場は、最高の実を生み出すために努力をしているということです。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)とありますが、私たちの父はどちらの農夫でしょうか?それは間違いなく後者です。私たちが最高の実を結ぶために、ぶどうの木を手入れしてくださるのです。あなたが実を結ぶことを誰よりも期待しておられるのは、農夫である天の父なのです。