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コラム 牧師の書斎から

2021年2月14日 澤村信蔵

「人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。…神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。」(創世記2章20~22節)

 先日、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長が女性蔑視発言の責任を取り辞任に追い込まれました。特に、「女性は・・である」という決めつけた発言と、発言そのもの以上に、彼の中にある男性より女性は下という女性を軽視する思考が問題とされたのでしょう。実際には森会長がどう考えていたかは決めつけることはできませんが。ともかく、男性と女性で、どちらが上だということはありません。
 神様がアダムを造った時、動物の名をつけさせました。名をつけることによってその動物の本質を見るようにということなのでしょう。その中で気づかされたことは、この中に自分の助け手はいないということです。そして、神が造ったのが女です。当然、男とはちがうものとして女は造られたのですから違いはあります。でも同時に、人は、「ふさわしい助け手」を得て、男と、女として存在するようになったのです。単なる雄、雌ではなく、人格を持ち、互いに理解し、助け合って、自分たちに託された勤めを協力してパートナーとして果たすために、男と女とに造られたのです。あばら骨で造られたというのもその象徴です。上でも、下でもなく、心のある場所、その心を共有するパートナーが男であり女なのです。お互いの弱さを互いに補うあうために、また、お互いの良いところをさらに互いに引き出しあうために神が備えてくださったのです。