ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2021年2月21日 澤村信蔵

「ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」ルツ記2章3節

 「落ち穂ひろい」に出かけるルツの姿は、ルツ記の中でも有名な場面ですね。落ち穂ひろいは、貧しい人や、寄留者たちがいのちを得るための手段でした。(レビ23章22節)にありますが、また、私たちの神様は、貧しい者、寄留者たちの神でもあるから、その人たちにも必要を私たちを通して与えてくださるのです。私たちも与える者でありたいと願わされます。実際、ルツにはこの落ち穂ひろいが、いのちをつなぐ糧となったのです。たかが落ち穂ひろい、されど落ち穂ひろいです。そして、それがはからずも主のご計画に用いられ、イエス・キリストの系図へとつながる恵みに入れたのです。
 でも、同時に思うこともあります。それは、落ち穂ひろいするような立場にはなりたくないということです。私には忘れられない天に召されたおばが言っていた言葉があります。「もう、昔のように人に福音を伝えるために出て行くことは出来なくなった。今は、ベットの上で祈るしかできなくなった。でも、落ち穂ひろいのような働きかもしれないけれど、私は親族や周りの人のために祈り続ける。そこにも十分な恵みがある」と。落ち穂ひろいのような働きしかできないけれどもそれでも十分に人を活かし、恵みを注ぐ手段があると言っていたました。実際に、親類一同のために祈り続けてくれました。もし、自分が落ち穂を拾うような状況になったとしても、そこにも神の恵みは豊かにあり、その恵みで十分なのです。