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コラム 牧師の書斎から

2021年6月13日 澤村信蔵

 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章9~10節)

 同じ出来事、また同じ人を見ても、人によって感じ方って全然違いますね。ルカ19章には、ザアカイという人が登場しますが、彼に対する見方も人によって全然違います。人々は、彼のことをこう見ていました。「あの人は罪人のところに行って客となった」(7節)ここに出て来るあの人というのは、イエス様で、罪人というのがザアカイを指す言葉です。ザアカイは、人々にとって罪人でしかなかったのです。取税人という仕事をあえて選び、当時ユダヤ人を支配していたローマ帝国の手先となり、自分たちから税金を搾取する人ですから、罪人としか見れないのは当然ですね。ザアカイの過去の姿、また、今の姿だけを見ていたら、そうしか見えません。でも、イエス様はだけは別の視点を持っていました。それは、ザアカイもアブラハムの子である。つまり、ザアカイも神の恵み、祝福を受けるべき存在だという目です。さらに、ザアカイは、今は失われた者だけど、この人もいつか救われるという未来志向の目で見ていたのです。私たちは、果たしてどちらの目で周りの人を見ていますか?過去だけ、またその人の現状だけを見ていたら、「罪人」という結論しか出てこない人もいるかも知れませんんね。でも、イエス様の目、神様の目で見ていくならば、その人は、今はたとえ失われた者であったとしても、いつか救われるべき存在なのです。