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コラム 牧師の書斎から

2021年11月07日 澤村信蔵

 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それ

どころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(Ⅰコリント12章18~20節)

先日、ある方から、足の小指に物を落として打ってしまったことを聞きました。今は回復しつつあるのですが、足の小指が痛いと歩くのがつらいですよね。私も経験があります。普段足の小指のことなんて考えるないのですが、傷んだ時には、その役割を思い知らされます。歩く時、実は結構指に力を入れているのです。パウロは、教会をキリストのからだとたとえていますが、教会においても、同じだと思わされます。教会の中で、不必要な器官は一つもないのです。お互いがお互いを必要としているのです。それだけじゃなく、実は、弱く見られる器官こそ、かえってなくてはならないのです。「弱く見える部分」とは、強くは見えない部分ですが、実際には、弱い部分ではありません。どうしても必要な部分なのです。「弱く見える部分」がどういう人かというと、例えば、病弱な人、貧しい人、人知れず祈り続けている人、人目につかないところで奉仕をしている人などもそうかも知れません。そういう人たちがいてくださるからこそ、私たちの教会は今あるのです。私たちの教会にとって必要のない人は一人もいないのです。同じキリストのからだである大切なお互いのために祈り、また、互いに愛しあっていきましょう。