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コラム 牧師の書斎から

2022年6月19日 澤村信蔵

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。(Ⅰコリント8章8~9節)

 私たちはそれぞれいろんな考え方がありますね。クリスチャンであっても考え方はそれぞれです。その中でやっかいなのは、「信仰的にこれが正しい」と自分の立場や考え方をみことばを根拠として主張する人がいることです。みことばは、変わらない真理と、それぞれの立場によって解釈に幅があるものがあります。コリント教会で起きたのは、食物の問題でした。「肉を食べてよい」か、「肉は食べるべきでない」かです。コリントの町には、異教の宮があり、その偶像の供え物となっていたのが肉でした。入手できる肉は、その偶像にささげられた肉である可能性が高いのです。偶像にささげられた肉だから食べてはならないと言うグループと、そもそも偶像の神は存在しないので、全く関係なく肉を食べてもいいと言うグループです。どちらが正しいのでしょうか。パウロは、後者で食べても問題がないと思っていました。でも、食べてもいいから食べたわけではありませんでした。彼はむしろ食べないと述べました。なぜなら、もっと大切なのは、自分の行いによって弱い人がつまづかないことだったのです。立場の違う人をも愛をもって配慮することの方が大事だったのです。多くの場合、何が正しいと一つに答えが出るわけではありません。だからこそ、自分の正しさではなく、愛を基準として行動しているか・・そこが問われているのです。