ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2024年6月16日 澤村信蔵

信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。(ヘブル11章24~26節)

 試練について語っているみ言葉は沢山あります。だから、すべてのことを一度に語ることはできません。今日は、特に試練が、神様から与えられるもの、神様からの贈り物であることを中心に語りますが、同時に、モーセの生涯を見るならば、選び取るものという側面もあります。皆さんは、あえて苦しみの道を選んだことがありますか?当然苦しみたいから苦しみを選ぶのではありません。苦しみ以上の富、報いがあることを知るからです。モーセは、エジプトの王妃の子として、豊かな生活をする以上に、神様とともに生きる道、神の民とともに生きることを選びました。それは、神とともに生きる生涯にこそ本当の価値があることを知っていたからです。確かに、この地上だけで考えれば、富を選んだ方が賢いかも知れません。でも、永遠まで含めて考えるなら、この地上で有限の間苦しみを選んで、永遠のいのちをいただくこと以上に得する道はないからです。そして、モーセが一見損するような目の前の苦しみを選んだのは、主が彼の驚くべき犠牲に正当な「報い」を与えてくださる方であることを知っていたからです。私たちも、主が与えて下さる「報い」にいつも目を留めていきましょう。