コラム 牧師の書斎から
2024年8月11日 澤村信蔵
「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」 民は答えた。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。…私たちもまた、主に仕えます。(ヨシュア記24章15~18節 抜粋)
ヨシュアの信仰告白「私と私の家とは主に仕える」に呼応するかのように、民も「主に仕えます」(18、21、24)と3度も応答します。でも、このあと、31節には、「ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた。」と書かれています。それは、ヨシュアの存命中だけだったことを示唆しています。事実、彼らは、神を忘れて、この後の士師記では偶像礼拝をするようになるのです。なんでこんなことが起こるのかと思います。でも、これは決して他人事ではありません。窮地に追い込まれれば、助けてくれるなら、どんな神でもすがりたい気持ちは分かるからです。イエス様の弟子たちも、十字架を前に、皆散り散りになりました。ペテロもどこにでもついて行きますと豪語していましたが、結局知らないと3度言うのです。これが人間の弱さなのでしょう。私自身もう一度このみ言葉を読みながら、「私と私の家は主に仕える」と告白するとともに自分の力ではできないことを改めて教えられました。それでも、神を愛せない自分、従えない自分をも愛し続けて見捨てない神の初めの愛を思い起こしつつ一歩ずつ日々従っていきますと告白しました。ともにこの主に仕えていきましょう。