コラム 牧師の書斎から
2024年2月23日 澤村信蔵
彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6章7~8節)
昨日は、聖書を学ぶ会で、イザヤ書を読みました。イザヤ書は、本当に素晴らしい預言が沢山記されています。全体としてみると、神様の救いの計画のすべてが記されています。その中心は、苦難のしもべです。処女から生まれること(7:14)から始まり、まさに十字架を見てきたのではないかと思うほど53章にいたるまでなどあまりにもリアルな預言が書かれています。神のしもべが、苦しみを通ることによって、私たちにも神の救いが与えられることが記されています。一方的な神の恵みですね。これはイザヤの召命の出来事においても同じです。神を見て、罪を認識し、私は滅ぶと叫ぶイザヤに対して、神が、触れてくださってあなたの罪も赦されたと宣言してくださる。一方的な恵みの世界がそこにあるのです。でも、恵みを受けた者は、そのままであるのではありません。イザヤ自身は、誰を遣わそうという神の召しに応答して、私を遣わしてくださいと出て行くのです。苦難のしもべであるイエス様は、神の召しに従って、十字架の苦難をも通ってくださいました。私たちは、どうするのでしょうか?イエス様のように、またイザヤのように、私たちも主の召しに応答していきましょう。