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コラム 牧師の書斎から

2008年11月23日 小平牧生師

亀谷凌雲という伝道者がおられました。この方は、親鸞の弟子である蓮如によって建てられた寺で生まれ、東大で宗教哲学を修めます。蓮如から数え18代目の末孫になります。しかし彼は一つの問題に悩みます。それは自分の罪の問題でした。「だれがこの罪から自分を救ってくれるのか。」彼はあらゆるものの最後に聖書を通してイエスキリストに出会います。歴史的実在のない阿弥陀如来とは対照的に、イエスキリストは、神が人となりこの歴史の只中で救いを開いて下さった神ご自身であることを知ります。イエスキリストの十字架こそ神が私たちの罪を引き受けてくださった証拠、キリストこそはまさに如来中の如来、真の救い主と彼は信じるのです。そして彼は寺を出てキリストの伝道者として歩みました。

亀谷師は「仏教からキリストへ」の中で述べています。「世にはいろいろの喜びがある。しかし、皆一時的の喜び、浅い喜び、はかない喜びだ。けがれた喜び、罪の喜びでもある。人は皆この影のような喜びのみを追い求めている。この喜びは得てもまたたくまに皆消えていく。真実の喜び、永遠の喜び、世の何ものにも、いかなる苦患にも、災禍にも、死にさえも犯されることの絶対にない、きよい無限の喜びはないものか。ある、ある。キリストこそがこれを与えたもうのであった。外的な生活には、悲しみあり、憂いあり、恐れあり、惑いあり、罪の渦巻く痛苦の重なるものがあっても、しかも心の奥はいつもキリストとともにあって、絶対の歓喜に喜びあふれているのだ。」

来週からアドベントです。神が人となってこの世に来られた記念日を待ち望み、あなたは何を考えますか。亀谷師のように自分の罪と取り組む人はいるでしょうか。亀谷師のように絶対の歓喜に喜びにあふれているでしょうか。