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コラム 牧師の書斎から

2009年3月29日 小平牧生師

あなたには自分の罪を責めてくれる友人がいますか。もし、あなたにもしそういう人がいれば、あなたはすばらしい友を持ったことになります。そして信仰的にも人間的にも互いに成長するでしょう。クリスチャンであるということは、罪を犯すか、犯さないかの違いではありません。その悔い改めと回復に互いの関係があるのがクリスチャンです。
たとえば、このようなテーマについて述べている代表的な聖句は次のみ言葉です。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。 」マタイ18:15-16
人間関係の問題の解決の仕方がはっきりと書いてあります。その第一番目のことは、「ふたりだけのところで責めなさい」ということです。それが「兄弟」なのです。あなたは、責めるべき相手と向き合わないで、第三者のところで相手を責めていませんか。その結果、それが第三者を介して本人の耳に届き、誤解が増して、対立が生じることになります。自分を責めるべき言葉を第三者に語ったという事実が、第二次的な対立感情を生じさせるからです。イエス様の時代、罪を犯した人は大勢の人々の前で責められました。例えば姦淫の現場で捕らえられた女性も大勢の人々の前で罪を責められました。しかし、人は「辱しめられる」ことによっては心を閉ざすのではないでしょうか。人の尊厳に敬意を払わない人のことばは、正論であっても受け入れられないでしょう。イエス様は違いました。彼女に向き合われたのです。「ふたりだけのところで責める」とは、相手の尊厳に敬意を払うことです。それが責めることができる関係を築くための信頼の土台となります。箴言27章に「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのに勝る」とある通りです。二番目のことは来週書きます。