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コラム 牧師の書斎から

2009年4月12日 小平牧生師

教会の中にも様々な人間関係があります。神様に愛され赦されているとは言え、お互いに弱い者たちですから、失敗や罪を犯すこともあるかもしれません。
イエス様はそのような私たちの人間関係のために、次のようなみことばを語られました。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」マタイ18:15-16

二週間にわたって、「ふたりだけのところで責める。」「責めることは兄弟を得るため。」ということについて書いてみました。そして三番目には、責める目的は「すべての事実を確認すること」であることです。

「責める」という言葉には相手の過ちを指摘して感情的にも非難するという感じが含まれています。そのために、多くの人は兄弟を責めることに躊躇してしまいます。逆に自分もそうされたくないからです。しかし、責める目的は指摘や非難ではありません。兄弟を責める目的は「事実を確認」をするためです。事実確認には感情的な非難は必要ではありません。人が罪を悔い改めないのは、自分自身の問題を認めようとしないからですが、しかしなぜ自分の問題を認めないかと言えば、自分が非難されていると感じているからです。しかしもし、非難されていると感じることなしに事実を確認することができるなら、悔い改めに導かれます。

兄弟として「自分を責めてくれる」存在。それはクリスチャンならではの関係ではないでしょうか。それがない関係は単なる仲良しになるでしょうし、その関係は本当に長くは持たないのではないでしょうか。逆にただ罪を指摘することはだれでもできます。しかし私たちは互いの重荷を負い合って、キリストにある本当の兄弟となるために召されたのです。イエス様の十字架を感謝します。イエス様の復活を賛美します。