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コラム 牧師の書斎から

2009年9月13日 小平牧生師

おはようございます。先月8月は成増教会の奉仕を休ませていただいたので、ずいぶんと間があいてしまいました。来週は成増教会の礼拝に出席して、みなさんにお会いできるのを楽しみにしています。

さて、私事ですが、今月は5日が長女、6日は次女、10日が長男のそれぞれ誕生日で、毎年9月は心は喜びで満たされますが私の財布は空になります。しかし何よりも、子どもの誕生日には神様の恵みを思い起こします。

長男の尭生(たかお)が5歳の時のことですが、夜中に急に激しい咳をし始めたので抱き上げたところ、意識がなく、呼吸も止まってしまい、全身がけいれんをおこしてしまいました。急いで救急車を呼び、その間、見よう見まねの人工呼吸をしながら救急車を待つ間にも、彼のからだは徐々に冷たくなってしまうような状態でした。神様に叫びながらひたすら人工呼吸を続けました。救急車が来て病院に連れて行かれる間も、意識は回復せず、救急隊員の緊張したやりとりが続く中で、私は頭の中で「息子は取られるのかな」と考えていました。そして「今日は土曜日。明日は日曜日か」と、息子の葬儀になった場合の段取りを考えていました。後でそのことを家族に話してひんしゅくを買いましたが…。
結果的に息子は生きて私たちの手もとに返されました。呼吸が止まっていたにもかかわらず障害もなく、不思議なように回復したのです。これは、たしかに、私たちから息子が「取られた」経験でした。そしてあらためて「委ねられた」のです。たしかに、彼が生まれた時、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」という聖書のことばから名前を付けました。「尭生」の「尭」の字をよく見て下さい。十字架が三本立っているでしょう。十字架のもとに立って生きる。これが彼の名前の意味です。あの時の経験でわかりました。
自分の子どもであっても、自分のものではないのです。

私たちは今、同じ経験をしています。私たち一人一人そして成増教会を、生かすも殺すも、私たちの「生殺与奪の権」は神にあるのです。しかしその神はひとり子を私たちのために十字架につけるほど、私たちを愛されている神です。だから苦しみの中でも喜ぶのです。