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コラム 牧師の書斎から

2009年10月4日 小平牧生師

私たちにとって一番すばらしいことは何でしょうか。それは「愛されている」ことを喜び続けることです。神様は私たちをそのありのままの姿で愛してくださっています。その事実が私たちに生きる力と喜びを与えます。しかしなぜクリスチャンなのに、つまり愛されていることをすでに知っているのに、喜びが失われてしまうのでしょうか。愛されていることが、もっと喜びと感謝に表れてもいいのではないでしょうか。礼拝こそ喜びの時であるはずなのに、深刻な顔でうつむいて自分たちの罪深さを嘆いているのでしょうか。まじめなことはすばらしいことですが、どうして自分の問題ばかり探しているのでしょうか。

我が家の娘が幼い頃に親にうそをついたことがありました。私は彼女といっしょに話し、最後にお祈りをして、「もういいよ。もううそをついちゃいけないよ」と言ってそのことは終わったのです。彼女は本当にうれしい顔をして兄弟たちとの遊びの輪に帰っていきました。ところが、その日の夜、彼女は私のところに来てもじもじ何か言うのです。どうも不安になったようです。私は「大丈夫だよ。○○ちゃんはゆるされたんだから、もう心配しなくていいよ。」彼女の不安そうな顔がいっぺんに笑顔に変わりました。みなさん、もしこの子がさらに何度も繰り返して私のところにやって来て「ねえ、本当にいいの?大丈夫?」と言い続けたらどうでしょうか。「おまえはお父さんのことばを信じないのか」と言って叱ったでしょうし、私は親として悲しみを覚えたでしょう。

これは人ごとではないように思います。否定的な性質に染まっている私たちは、神様を私たちの罪を探し出すのが好きな方であるかのように思いこんでいないでしょうか。「子よ。安心しなさい。あなたの罪は赦されました。」とイエスキリストは言われました。それなのに、「いや、そんなはずはない」とあなたは言いますか。救われた「事実」と、その「確信」は違うものです。赦されてもいないのに赦されていると確信している人は残念ですが、赦されているのに赦されていることを受け入れない人は悲劇です。