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コラム 牧師の書斎から

2010年1月31日 小平牧生師

戦国時代の代表的なキリシタン大名であった大友宗麟の墓を訪ねてきました。
彼のお墓の写真を掲載できないのが残念ですが、その墓は成増教会の礼拝堂と似た造りです。その理由は後で説明します。
大友宗麟は1530年に府内(今の大分市)で生まれ弱冠21歳で戦国時代の真っ只中に大友21代の城主となり、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6箇国と日向・伊予の各半分を領し大友の最盛期を築きました。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを迎え、彼自身も洗礼を受け、府内には西欧文化が栄えます。特別なところでは、1557年にポルトガル人アルメイダによって外科、内科、ハンセン氏病各科を備えた総合病院を建てました。
これが西洋医学が初めて導入された日本初の総合病院と言われ、領民は無償で治療を受けたようです。1582年には他のキリシタン大名の大村・有馬両氏とともに伊東マンショたちによる少年使節をローマに派遣しますが、1586年島津と戦って破れ、翌年58才で現在の津久見に於いて生涯を終えます。その葬儀はキリスト教式で盛大に行われ、墓もキリスト教式で建てられましたが、その後秀吉の耶蘇禁止令によって仏式の墓に取り替えられました。近年になって地元の人々によってキリスト教式の墓が建てられるのですが、それを設計したのが成増教会の礼拝堂を設計した磯崎新氏です。磯崎氏は大分市の出身なのですね。
前置きが長くなりましたが、大友宗麟の墓を巡りながら400年以上も前の日本を生きたクリスチャンたちの人生を思いました。彼らが何を知っていたかと言えば、今のような聖書の学びも教会の交わりもないのですから、その知識、行動などにおいて充分、あるいは正しかったかといえば、そうではありません。
しかし、彼らには現代の私たちに勝るものがたしかにありました。それは「国が変えられるビジョンをみた」ことであり、「キリストにいのちをかけた」ことです。津久見駅前に立つ銅像には「彼はこの地にキリスト教理想王国の建設を夢見た」と刻まれていました。私たちは何を夢見ているでしょうか。