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コラム 牧師の書斎から

2010年5月2日 澤村信蔵師

先週は、母教会での牧師の結婚式に出席しました。結婚式は何度出ても良いものですね。特に、今回はともに小さい時から知っている二人でしたので、喜びもひとしおでした。ちなみ今回は、披露宴の司会を初めてさせていだきました。式、披露宴を通して強調されていたのはささげるということです。新郎は、献身をする前から、新婦を大好きで、それは傍から見ていてもよく分かるくらいでした。といっても、当の本人にはあまり伝わらず、新郎の片思いだったようですが・・。しかし、神様から献身の思いを与えられたとき、自分の恋心も含めて、神様にささげて神学校に進みました。卒業後、結婚の話もあったようですが、全然乗り気になれず、一生独身で神様に仕えるということまでも考えていました。しかし、しばらくして、新婦となった女性が神学校に入学するという聞き、神様にささげていた思いが再びよみがえってきました。

でも、神学生には、自分の思いを伝えてはならないと釘をさされ3年間祈りつつ過ごしました。その祈りの中でも、これが自分の身勝手な思いなのか、神様の御心に沿うものなのか問いかけながら、自分の思いを超えて、神様の御心がなるようにと祈るように導かれました。そして、彼女の卒業後思いを伝え、結婚へと導かれました。

一歩間違えたら危ない片思いになりかねないほどの思いでしたが、彼が神様にささげたからこそ成就したのだと感じました。

私たちも、時には自分の思いを神様のためにささげる必要があるのかも知れません。ただ、間違えてはいけないのは、思いをささげるのは、私たちが貧しくいやしく我慢するためではありません。神様が用意してくださるものは、自分が願うよりも、さらに素晴らしいということを信じるからこそささげるのです。つまり、持っているものを手から放して、新しい祝福をつかむことが出来るようにするために行うのです。イサクをささげたアブラハムもそうでした。イサクをささげたことにより、イサクを取り戻しただけでなく、さらに多くのものが与えられました。私たちもさらに祝福をいただくために、思いにおいても、神様にささげるものとなりましょう。