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コラム 牧師の書斎から

2010年6月6日 小平牧生師

新しい首相を紹介する朝刊の記事に、O157問題の時にカイワレを食べている様子や、ハンセン病療養所を訪ねて入所者の方々と風呂に入っている姿が掲載されていた。それを見ながら思い出したことがある。

今から30年近くも前の神学生時代のことだが、ある療養施設を数名の同級生と訪ねた。施設を見せていただき、ここで生活しておられる方々がどんな差別を受け過酷な人生を歩んで来られたか、責任者の方からお話をうかがった後で、入所者の方のお部屋を訪ねた。私と後輩の神学生は一人の高齢の方のお部屋にあげていただいた。何を話したかはまったく覚えていないが、しばらくの時間が過ぎ、その方が茶棚から果物を出して私たちの前に出して下さった。不自由な手でお茶を入れ、時間をかけて果物をむいて出して下さった。ところが、私たちには手が出なかった。食べなければならない…食べたい…と思ったが、食べられなかった。後輩の彼は、お茶にも手が出ない様子だった。私は思いきって手を伸ばしてその一つを口に入れた。その瞬間、ウッとなったが、何もなかったようにしてお茶で流し込んだ。そのようにして、その訪問は終わった。そしてその施設から帰る時、見送って下さった責任者の方に「出していただいたものを食べられなくてすみません」と言った私に、その方が言われた。「それがふつうですよ。無理をして食べなくてもいいんですよ。」

自分という人間を知った一つの経験だった。自分の行為はその方に対する愛から来るものではない。自分を示そうとしたパフォーマンスであり、その証拠に食べられなかった後輩を見下す思いが私の内にあった。自分の中にある偽善を思い、帰りの電車で自分の性質に泣いた。そして後輩にあやまった。若い神学生の時の思い出だ。