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コラム 牧師の書斎から

2010年6月27日 小平牧生師

聖書のことばに「ハッ」とさせられることがある。最近、ある書籍の案内に「あなたは正しすぎてはならない」という題の本が紹介されていた。「あなたは正しすぎてはならない。」これは旧約聖書の箴言に出てくるソロモンの言葉だ。私自身、自分をふり返ると、自分を「正しい」とすることが多い。もちろん、それは私が本当に正しいということではなく、ただ私が自分の考えや意見を正しいとしているだけの話だ。ところが、自分を「正しい」とするだけではなく、「正しすぎる」ことさえある始末なのだ。そのための失敗は、あまりにも恥ずかしくてここに書けない。

ソロモンは、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」と言い、そして「悪すぎてもならない。愚かすぎてもならない」と言っている。私たちがイエスキリストにしたがって生きるということは、オセロゲームのように、「黒」が、突然全部「白」になったというようなことではないし、また「白」を目指して「黒」に目をつぶってしまうことでもない。むしろ実際は「白」でもなく「黒」でもない、いわば不完全な自分を、イエスキリストにあって受けとめて生きることなのだろう(そんな自分をイエスキリストが白くして下さるのだ)。ある人が、「不完全な自分に折り合いをつける」と表現していたが、「折り合いをつける」という言葉はとても現実的な、実感のともなうことばだと思う。「折り合いをつけられる」人は、自分を受け入れることができるし、他の人も受け入れることができる。ところが、人は、「不完全な自分に折り合いがつかない」ために、正しすぎたり、知恵がありすぎたり、愚かすぎたり、悪すぎたりするのだ。

ソロモンは、「正しすぎると自分を滅ぼすことになる」と警告し、反対に「愚かすぎて自分を滅びに向かわせてはならない」と語っている。イエスキリストにあって正しさを目指すことはすばらしい。しかし正しくない自分を否定する必要はない。私たちの正しさが自分を滅ぼすことがあり、正しくないことによって生かされることさえあることを覚えておきたいと思う。