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コラム 牧師の書斎から

2010年8月8日 小平牧生師

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。

あなたはどんな仕事もしてはならない。…それは主が六日のうちに…すべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」

これは、旧約聖書に記された「十戒」の一部、安息日の教えだ。「安息日を覚える」とは、どういうことだろうか。今日の私たちは、このことを「主日礼拝を守る」ことに置き換えてしまっているように感じるが、ここにはもっと大事なことがあるのではないか。

まず最初に私たちは「六日間、働かなければならない」ことだ。今日の私たちにとって頭が痛いことだが、六日間で、あなたに与えられた「すべての仕事をしなければならない」。そして「七日目は、休まなければならない」。その日は「どんな仕事もしてはならない」とあるのは、それは「主が、七日目に休まれたから」だ。言うまでもないが、七日目に休まれたのは六日間の働きの疲労回復のためではなく、六日間の業の完成を祝福するためであった。「六日間働いて、七日目は休む。」これが、神の創造された世界のリズムであり、私たちの生活のリズムである。このリズムによって、私たちの六日間の働きは祝福されるのだ。

福音書に、弟子たちが麦畑の穂を取って食べているのを見た律法学者やパリサイ派の人々がイエスのもとに来て、「なぜ彼らは、安息日なのにしてはならないことをするのですか」と非難したことが記されている。「安息日にしてはならないことをしている。」律法学者たちの安息日についての関心であり、私たちも陥りやすい過ちである。最も大切なことは、「安息日にしなければならないこと」であって、「安息日にしてはならないこと」はそのためのものだ。主イエスは「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と言われた。この日を文字通り安息の日、聖なる日とすることが、あなたを守ることを忘れてはならない。