ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2010年11月14日 澤村信蔵師

先日、youtubeを介して、中国漁船衝突事件の映像がネット上に流出したことが問題となりました。当初はどこから流出したのかと、犯人探しにやっきになっていました。神戸のネットカフェで流出したということが分かったということもあったのでしょうか、ほどなくして、神戸海上保安部に属する保安官が船上で上官に、自分がやったと名乗り出ました。しかし、彼自身は、「罪を犯した意識はない。罪とは思っていない」と述べましたが、彼には罪の意識は全くありませんでした。むしろ、国民のために自分は正しいことをしたのだと思っているのではないでしょうか。果たして彼のしたことが正しいのかどうか、皆さんはどう思われるでしょうか。そもそも事件の映像を公開しない政府が悪いのだから流出させたことは正しいことだという意見から、公務員でありながら、極秘情報を流出させた罪は免れないという意見まで様々あるかも知れません。いろいろ考えさせられる事件です。正しいことは何なのかとそう思いながら聖書を読んでいると、一つの聖句が目に留まりました。「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。」(申命記6章18節) ちょうど祈祷会で学んでいる箇所ですが、この言葉は、自分にとって正しいことか、良いことかという視点ではなく、神様にとって正しいこと、良いと見られることをするようにとの勧めです。

ふと、自分にとって何が正しいかとは考えていても、神様にとって何が正しいのだろうかという視点を見落としていたのではないかと感じました。私たちは、神様はどう考えておられるのだろうかと神に聞く視点をいつも持っているでしょうか?それを忘れてしまい、自分こそ正しいと思ってしまったら、その瞬間に他人を、時には神でさえもさばくものになってしまいます。私たちは、躓きやすいものなので、正しいことが分からないこともあります。まして、神様のみこころはもっと分からないのかも知れません。そうであっても、いつも神様に「神様、あなたにとってどうすることが正しいことなのでしょうか」と問いかける姿勢が大事なのではないでしょうか。そして、いつも神を思い続けることを神様自身が一番望んでおられるのではないでしょうか。