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コラム 牧師の書斎から

2012年6月3日 小平牧生師

人によって「自信」といったり「勇気」と言ったりする。だぶん同じようなことを言っているのだろうが、しかしそこには少し異なったニュアンスがあるようにも思う。「自信」の根拠はその人自身にある。自分の力や実績をもとに、人は自信を持つ。そういうものがなければ、いくら「自信をもって」と言われても、かえって自信がなくなってしまう。しかし、勇気というのは、その人の力や実績にはよらない。自分には「自信」はなくても、「勇気」は与えられる。

そんなことを考えながら聖書を検索してみると、たしかに「自信」という言葉は、旧約聖書の箴言14章16節に一回登場するだけだ。それも「愚かな者は怒りやすくて自信が強い」とあるように、良いこととしては語られていない。それに対して「勇気」は旧新約あわせて20回くらい登場する。神様は私たちに何度も繰り返して「勇気を出しなさい」と語られる。新約聖書では「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」という第二コリント4章の言葉が思い出されるだろう。

正直なところ、私自身は「自信」という言葉はピンと来なくなった。「自信がある」という感覚が今やわからないのだ。なぜなら、神様の業は人の力や経験の範囲にはおさまらないからだ。聖書を語る時も、人々に決心を迫る時も、人からは大胆で強引とさえ言われる私だが、内心はぶるぶる震えている。もっともっと勇気が与えられて、神の御業の世界にチャレンジしていきたい。