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コラム 牧師の書斎から

2012年10月21日 小平牧生師

自慢できることではありませんが、私は失敗だらけの人間です。(「わかってる!」って、突っ込まないでください。)教団の牧師として、覚えているだけで今までに始末書を三回以上書きました。関係者がいますから詳しいことは書けないのですが、それだけではなく前回の理事の時には辞表を、また今春の教団理事長選挙でも辞退届を出さなければなりませんでした。結果的に受理されなかったので理事長になってしまいましたが。(自分をこのようにネタにするのは関西人の特色ですので、気になさらないように。)

聖書を見ると、長老(牧師)には「非難されるところがない」ことが求められていますが、もしそれが「完璧である」ことを意味するなら、私は完全に不適格者です。ところが、自分が不適格であること以上に、私だけが気がついているもっと大きな私の問題は、「非難されそうなところ」を隠そうとする性質があることなのです。アダムは自分を隠し、神から隠れましたが、自分自身のうちに同じ性質がしっかりあることに気がつかされます。ついでにアダムと関連して言うならば、都合が悪くなったり機嫌が悪くなって黙り込むのも、同じ男としての性質のように感じます。

そんな私ですが、希望があります。それは、聖書が人々の失敗や挫折の経験を隠すことがなく、すべてを明らかにしていることです。モーセもダビデもパウロもペテロについてもです。だからこそ、そこに赦しや和解の恵みが輝いています。この恵みをもっと知りたいと思います。そのためには、私たちは自分のすべてをさらけ出す必要はありませんが、少なくともありのままであることが大切だと思うのです。自分の「非難されそうなところ」を隠さない誠実さが必要です。またさばかれたり批判されないお互いの関係が大切です。私たちのきよめの信仰が、ただ掲げられた名目的なものにならず、実体のともなう生き方になることを主は願っておられます。