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コラム 牧師の書斎から

2013年3月17日 澤村信蔵師

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)この言葉は非常に考えさせられる言葉です。神のひとり子であるイエス様がどうしてこのような叫びをしなければならなかったのでしょう。この叫びの本当の意味を知るには、罪ということを正しく知る必要があります。罪は、誰かが償わなければなりません。先日、夜遅く渋谷の警察までいってきました。いろいろと事情はあったようですが、ある方がタクシーの無賃乗車をしてしまい、その支払いをするために行きました。意図的であったかどうかは別にしても、言葉ですみませんというだけでは当然すみません。本人が出来ないならば、別の誰かがその償いをしなければなりません。罪は、決してうやむやには出来ないし、うやむやにしてはならないものなのです。

でも、ほんのわずかなお金の弁償くらいなら、私でも出来るかも知れません。(もう二度としたくはないですが…)でも、私たちは、どのようにしたら自分の罪そのものを償うことが出来るのでしょうか?聖なる神様の前に、どうやって申し開きをし、赦してもらうことが出来るのでしょう。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、罪をわずかでも犯したら死をもって償う以外に道はないのです。誰が私の代わりに死んでくださる人がいるでしょう。

でも、主イエスは、この罪の裁きを私たちの身代りとなって受けてくださったのです。「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)とあるように、まさにすべての罪を担い、のろわれた者、見捨てられた者となってくださったのが十字架なのです。そして呪いそのものとなり、神の怒りを全て受け止めてくださったからこそ、あの叫びがあったのです。ある人がこの冒頭の言葉を見るごとに、「わが神、わが神、どうして私をお救いになったのですか。」叫びたくなると言われましたが、本当にそうですね。どうして私たちが選ばれたのか分かりません。でも、私たちの身代りに主が呪われたものとなってくださったから、私たちは救われたのです。今日も救いの喜びに満たされて歩んでいきましょう。