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コラム 牧師の書斎から

2013年5月26日 澤村信蔵師

最近、創造主訳(創造主訳聖書刊行会、尾山礼二訳)という聖書が発売されています。特徴としては、直訳ではなく意訳をしている部分が多く見られます。でも、一番の特徴は、神ではなく創造主と訳していることです。読んでみると少し違和感を覚えるのですが、でも、新たに、神様の素晴らしさを感じることができました。といってもまだまだ聖書全巻を通読したわけではありませんが…

「初めに、創造主が天と地とを創造された。」(創世記1章1節) 神と記すのではなく、創造主と記すことによって、自分はこの創造主によって目的をもって造られたのだということを常に思い起させるために書かれました。「地球とは言っても、形が無く、混沌としており、真暗闇で、液状であり、創造主の聖霊は、あたかも雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた」(創世記1章2節)この世界の最初は、形も何もなく、混沌で、真暗闇でした。しかし、そこには、神の霊、創造主の聖霊が、それらを覆っていたのです。創造主なるお方は、愛なるお方です。だから、神様の愛が混沌や暗やみを覆っていたといっても過言ではないのです。この世界は、神の愛に覆われていたからこそ産みだされたのです。

そして、創造主なる神は、「光よ。あれ」「光は、出て来い(創造主訳)」と光を造りだされたように、私たち一人一人を、「あなたはこの世界にありなさい。ここに存在しなさい。」と愛をもって生みだしてくださったのです。ここに私たちお互いが存在するということは、神の愛を抜きにしてはありえないのです。私たちが今ここにいること自体が、神が私たちの存在を心から願われた証拠なのです。私たちが創造主なるお方を見上げる時、自分がいかに愛された存在かが分かります。

自分なんていてもいなくてもと思うことがあるかもしれません。でも、決してそうではないのです。創造主なるお方が、「あなたにいて欲しい。存在してほしい」と願われたからこそ、今日私たちはあるのです。神のあなたへの愛は変わることがありません。今日も私たちを愛してくださる創造主なるお方をここから礼拝しましょう。