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コラム 牧師の書斎から

2013年6月30日 小平牧生師

若い人たちの集会でよくする話に、「あなたには二人の偉大な教師がいます」という話があります。

この二人の教師はどちらも偉大な教師です。最初の先生はちょっと授業料が高いのが欠点ですが、しかし私たちはこの先生から学ぶことが多いです。その先生は「経験」という先生です。私たちは、恥ずかしい目にあったり、愚かなことをしたり、ある時は人生のすべてを払って、大切なことを学びます。犠牲は大きいのですが、それだけに私たちにとっては大切な先生です。学べば、ですけれど。中には高い授業料を払っても学ばない人もいますからね。

もう一人の先生も偉大な教師です。この先生の良いところは、何と言っても授業料が安いというところです。ほとんど無料といってもいいでしょう。ところが残念なことは、私たちはこの先生から学ぼうとしないことです。この先生とは「聖書」という先生です。実は私たちに必要なことをあらかじめこの先生が教えてくださっています。ところが、自分には関係のないつまらない話のように聞いているのです。そのために、聖書先生が教えてくれていたことを、後でとんでもない授業料を払って経験先生から学ぶことが多いです。

あえて言えば私たちには第三の教師もいます。それは、他の人に高い授業料を払ってもらって学ぶことができる先生です。その先生は「歴史」という先生です。自分は払わずに、自分のものとする。いいですね。これこそ、私のような関西人にぴったりの先生です。この先生は、真理や原則がその時代の中でどのように適用されたのか、あるいはされなかったのかを明らかにし、私たちに大切なことを教えてくださるのです。

さて、今月は、かつて私たちの教団が治安維持法により国家によって弾圧を受けた記念の月です。牧師は捕らえられてある者は獄死し、教会は解散させられ、多くのクリスチャンは信仰を捨てました。私たちはこのことから何を学んだのでしょうか。聖書はいつの時代も迫害はあると言います。リバイバルの中から救われた人たちがなぜ信仰を捨てたのか、考えてみてください。