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コラム 牧師の書斎から

2013年8月4日 小平牧生師

「敬虔なクリスチャン」という言い方があります。残念ながら(?)私はそう言われたことはありませんが、一般の社会では、ただ「クリスチャン」とは言わないで、必ずと言っていいほどに「敬虔な」をつけることが多いようです。そして残念なことは、それは決して誉めているのではなく、つまり自分もそうなりたいと思って言っているのではないことです。この「敬虔」という言葉は、真面目な、善良な、かたい、というような意味で使われます。でもその言わんとすることは、真面目だけど裏表がある、善良だけど弱い、かたくて面白くない、というようなニュアンスです。
しかし、「敬虔」の本当の意味は、そういうことではありません。司馬遼太郎が「明治という国家」の中で「敬虔」について説明しています。明治に入ってやってきたプロテスタントの宣教師たちは、その国においても第一級の人物でした。その人たちの持っている使命に対する誠実や勤勉さを「敬虔」と表現したのです。横道にそれますが、宣教師たちのそのような姿を見て本願寺の僧侶たちは自らを反省し、明治20年に西本願寺から「反省会雑誌」が生まれました。それが現在の雑誌「中央公論」になりました。
彼らの「敬虔」の中身は、何よりも誠実、自律、また勤勉です。それは裏表や弱さとは対極にある、力強さです。宣教師や最初のクリスチャンたちはそのように生きる若者たちを育てるために多くのミッションスクールを建てました。そのようにして日本の社会に大きな影響を与え貢献してきたのです。私たちの先輩の歩みを正しく評価し、真に「敬虔なクリスチャン」と言われる者となりたいと思います。