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コラム 牧師の書斎から

2013年8月25日 小平牧生師

若い人たちの集会などで必ずさせていただく「二人の偉大な教師」という話があります。
あなたには二人の偉大な教師がいます。この二人の教師はどちらも偉大な先生です。最初の先生の欠点はちょっと授業料が高いことですが、しかし私たちはこの先生から多くのことを学びます。その先生は「経験」という先生です。私たちは、恥ずかしい目にあったり、愚かなことをしたり、ある場合は人生のすべてを授業料として払ってこの先生から学びます。授業料は高いのですが、それだけに私たちにとっては大切な先生です。もちろん学べば、ですが。中には高い授業料を払っても学ばない人もいます。もう一人の教師も偉大な先生です。この先生の良いところは、最初の先生とは違って何と言っても授業料が安いことです。ほとんど無料といってもいいでしょう。ところが残念なことに、多くの人はこの先生から学ばないのです。この先生とは「聖書」という先生です。私たちに必要なことは、前もってこの聖書という先生がすべて教えてくださっています。ところが、多くの人は自分には関係のないことのように聞いているので、あらかじめこの先生が教えてくれていたことを後でわざわざ高い授業料を払って経験という先生から学ぶわけです。実はもう一人三番目の教師もいます。この先生にはすでに他の人が高い授業料を払っていますから、私たちはこの先生からもただで学ぶことができます。その先生とは「歴史」という先生です。自分は授業料を払わずに学ぶのです。関西人にはたまりません。
何度もこの話をするのは、私たちは神の言葉である聖書から学ばず、歴史からも学ばず、やっぱり自分が高い授業料を払わなければならないようになることを繰り返すからです。この夏、日本の指導者たちの発言を聞いていると、自分の経験を誇り、自分の経験しか信じない、神様の言葉や歴史から学ぼうとしない人間の愚かさが悲しくなります。