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コラム 牧師の書斎から

2013年11月24日 澤村信蔵師

ヨハネの福音書5章1~9節には、38年間も病に伏せっていた男の人の癒しが記されています。この男の人は、神の力に期待していました。だからこそ、ベテスダの池のほとりにいたのです。しかし神の力を受ける事は自分にはできないとあきらめてもいました。良くなりたいかとの語りかけにも、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」と応えています。神の力はあれど自分には及ばないと信じ込んでいるのです。もしかしたら、私たちも同じような状態になっていないでしょうか?確かに神様は全能だけど、私には及ばないと思うのです。病であれば、『主は癒やし主である』と信じながらも、『自分の病いは、癒されないんじゃないだろうか?』と考えてしまうのです。この病人は、そんなクリスチャンの型です。そんな時主がおっしゃった事は、1 起きて、2 床を取り上げて、3 歩きなさい、ということです。第一に「起きる」とは、信仰の一歩を踏み出すことです。一歩ふみだすことによって働く神の力があります。そのためには本人の決断、決心、覚悟が必要です。特に信仰の一歩目に決心が必要なのです。ヨシュアがヨルダン川に足を踏み入れたとき、川がせき止められたように、神の力を感覚で知る前に、信仰で受け止め、行動に結びつく事が大切です。でもそれは一歩で良いのです。一歩勇気をもって踏み出せば、そのあと成し遂げてくださるのは主の力です。第二に、「 床を取り上げる」とは、後戻りしないということです。床を置いておけばいつでも元に戻れます。また以前の寝たきりになれるのです。かつての安住のポジション、信仰を否定し、楽でぬるい領域にいつでも戻れるようにしておくことです。それを取り除かなければなりません。取り除いてしまえば、自分ではどうすることも出来ないのですから、もはや神様以外にたよるものはありません。第三に、「歩きなさい」とは、そのような信仰の歩みを続けるということです。走らなくてもいいのです。歩めばいいのです。前に進み続けることによりゴールがこちらに近づいてくるのです。途方もない先にあるように思える主イエスの完成された姿でさえも、私たちが歩み続けることによって私たちも変えられるのです。私たちは一人ももれることなく、神の計画に従って完成されるお互いなのです。