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コラム 牧師の書斎から

2014年4月13日 小平牧生師

受難週に考えたい質問です。「イエスキリストの十字架は私にとって何なのか。」

私の罪のためです。世界の問題は何でしょうか。それは私の罪です。この罪のためにイエスキリストは十字架にかかられたのです。

それと同時に、次の二つの聖句を読んでください。まず、「私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5:14-15) この聖句からわかることは、私の罪のためにキリストが十字架にかかられたことを知った私にとっては、それは「愛してくれてありがとう」で終わらず、「では私はどう生きるのか」に直結するということです。十字架は自分の救いのための代償であるだけではない。キリストの死は「すべての人の死」であり、生きている私たちの生はもはや自分のための生ではなく、死んで復活されたキリストのための生なのです。

もう一つ「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

イエスキリストを信じる信仰によって義と認められた私たちにとって、十字架は私の罪のための十字架であるだけではなく、キリストとともに自分自身がつけられた十字架となるのです。つまり十字架は「私の救いのためのイエスキリストの死」だけではなく、「私自身の古い生き方の死」「この世の価値観で生きる私の死」でもあるのです たしかに、十字架は私たちの罪を赦し、私たちに永遠のいのちを与えました。しかし聖書を読んで気がつくことは、「死んだら天国に入れる。天国行きの切符を手にした」では終わっていないということです。

「十字架は何のか。」それは「イエスキリストはだれなのか」ということです。イエスキリストは、あなたの人生の手段ではありません。私たちの人生の目標なのです。受難週を迎えて、十字架の意味をもう一度しっかり考える必要はないでしょうか。