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コラム 牧師の書斎から

2014年5月18日 澤村信蔵師

先月から聖書を一年で読む会を始めました。一回目は、天地創造を通して私たちを愛してくださる神様の素晴らしさに目を留めました。二回目は、今週持たれますが、アダムの失敗を通して、人間に罪が入ってくる箇所を読みます。神様からただ一つ食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実をあえて食べてしまうのです。そして、この箇所を読むとき、つい思うことは、なんでアダムは罪を犯してしまったんだろうということです。いや、この箇所だけではありません。旧約聖書には、何度もイスラエルの人々の失敗が描かれています。というかむしろ生涯神様に従いとおした人は少なくほとんどすべての信仰者が失敗をしています。まるで、聖書は、罪の歴史かと思うくらいです。次から次へと続く罪の歴史を見る時に、信仰者なのに何故という疑問は尽きません。しかも、神様からこんなにも恵みも頂いているのに、本当に愚かだなあと思います。

でも、ふと自分に当てはめてみると、今度は自分自身が言葉に詰まります。何であなたは罪を犯したの?いろいろと言い訳を述べることはできるでしょう。仕方がなかったからとか、つい気づいたらしてしまっていたとか、皆がしていたからとか。でも、本当は自分自身が何で罪を犯したのかその理由を知っています。罪を犯したかったからです。自分自身の心が罪を犯すことを許容し、時には喜んでいることに気付かされます。なんて自分は罪深いんだろうと思わざるを得ません。まさに、罪人の頭であり、神よりも賢くなりたいと願って食べてアダムの末です。

でも幸いなことに、罪深い自分に気付かされると、感謝に溢れます。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5章20節)そんな罪人である自分自身が主イエスの十字架のゆえに赦されていることに気付くからです。自分が罪人であるということを知る事は、恵みを知るチャンスです。こんな私を愛して下さる方がいる。こんな私を罪なき者としてくださった。こんな私が救われた。罪人の頭であることを知ればしるほど、神様の恵みを知っていく者とさせていただきましょう。