ここからコンテンツ

コラム 牧師の書斎から

2014年7月20日 澤村信蔵師

先日の野の花の会で、ルカの福音書7章36節~50節に出てくるひとりの罪深い女のメッセージを語りました。イエス様がシモンというパリサイ人の家にいたときに、一人の罪深い女が入って来て、涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗りました。シモンが「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれでどんな女かを知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていると、イエス様がこの女性の弁護をしてくださるのです。その弁護の中、イエス様がたとえ話をされるシーンが出てきます。「ある金貸しから二人の者がお金を借りていた。ひとりは500デナリ、もうひとりは50デナリ借りていた。(一デナリは、一日分の給料、現在で言えば1万円ほど)彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。」そして、最後にこう聞かれます。「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」(42節)それに対して、シモンは、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えます。このところについて分かち合いをしたときに、この42節の言葉をイエス様がされたことに感動を覚えました。お金を返さなくてよかったとなった時、私なら感じるのは、恩であったり、感謝することが精一杯です。普通の感覚では、お金を赦すということ、愛するということはつながりません。でも、イエス様は、お金を赦すということ愛するということを結び付けられるのです。不思議です。でも、それはイエス様がまさに愛に生きておられたからです。どんな時も愛を基準として生きておられたからこそ出てくる言葉なのです。まさに、生活のどの領域においても基準が愛であったのです。私たちは、愛が大切だということを知っています。また、愛にあふれていきたいと願います。でも、果たしてイエス様のようにどんな時も愛を基準として歩んでいるでしょうか?愛に生きるとはまさにどうことでも愛が基準なのです。どうすることが愛することなのかいつも思いめぐらして、どんな時も愛を基準として歩んでいきましょう。