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コラム 牧師の書斎から

2014年11月23日 小平牧生師

今まで知らなかった自分の姿に気がつくことは大切だ。そもそも「自分」はいったい誰か。まず最初に「自分が知っており、他人も知っている自分」がいる。次に「自分は知っているけれども、他人は知らない自分」。三番目は反対に「他人は知っているが。自分は知らない自分」。そして最後の四つ目は「他人も自分も知らない自分」がいる。それぞれ、公開されている、隠している、知られている、未知の自分自身と言うことができるかもしれない。当然のことだが、多くの人は最初の二つを根拠に自信をもったりダメだと思ったりしている。時には「あなたなら大丈夫」との励ましによって三番目の自分を知らされることもある。でも、私たちは最後の四番目の自分に気がつくことはほとんどない。多くの人々との出会いの経験から言えば、自信のある人にかぎって最初の二つの部分だけに生きている。あとの二つの自分については目をつぶっているものだ。聖書は自分自身を照らす光だ。自分も知らない、もちろん他人も知らない、そういう自分の第4の姿に光を照らす。聖書に登場する人物たちはみな、神の言葉によって未知の自分自身に人生が広げられていった。

しかし、愛がないと私たちは心を閉ざすことになる。私は妻の言うことに耳を傾けたい。なぜか。彼女は私の知らない私の三番目の姿を知っている。そのことばに心を開くことができるのは、彼女が私を愛してくれていることを知っているからだ。しかし私はそれ以上に聖書のことばに毎日耳を傾ける。それは、自分はもちろん妻にもわからない第四の私自身を神さまは知っておられ、そして私を愛しておられる神さまがその私を教えてくださるからだ。「自分のことは自分がいちばん知っている。」そんな驕り高ぶりは捨てて、聖書を読もう。神の前にへりくだろう。自分を知ることができるから。何よりも愛されている自分がわかるから。