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コラム 牧師の書斎から

2015年1月11日 小平牧生師

今週土曜日、阪神淡路大震災から20年を迎えます。あの朝、ものすごい揺れの中で、樹木が裂ける不気味な音と異様な光によって目が覚めました。揺れがおさまると同時に私は家の中の様子を見に行こうとしましたが、まだ夜が明けておらず真っ暗で、倒れた家具などのために扉を押し開けて部屋から出ることができませんでした。その間にも、外からは叫び声や悲鳴が聞こえてきます。やっとの思いで部屋を出た時には、外は少し明るくなっていました。その後の行動を詳しく覚えていませんが、壊れた家の下敷きになっているおばあさんを近所の人とともに助け出して、ふと目を上げた時に、いつもは向こうにある高速道路が見えなかった光景に、身が震えました。

ふりかえってあの体験は何だったかと思います。仏文学者で哲学者である森有正が「体験」と「経験」の違いについて述べた内容を読んだことがあります。私たちは人生でさまざまなことを体験しますが、その前と後に変わりはないのが「体験」。それによって人生が深く掘り下げられ、それ以前と以降では人生が変わってしまう体験が「経験」なのだそうです。ある人々にとっては、震災も「えらい目にあった。もうあんなことはこりごりや」という一つの「体験」であって、20年も経てば風化してしまったかもしれません。しかしある人にとっては、人生観が変えられ実際に生き方が新しくなった「経験」となったと思います。

あの時に人生が終わっても不思議ではなかったのに、私が生かされているのはなぜか。「守ってくださって感謝します」というのは、正直な思いであっても、やっぱり自分中心の表れだと思い知らされます。私たちは聖書の価値観を学びつつ、この世の現実の中で生きています。しかしいつの間にかこの世の原則で聖書を再解釈しています。聖書の原則よりも、崩れ去るこの世界の繁栄を選択します。「社会の悪」は語っても「人間の罪」は語りません。ヨハネ黙示録には、神のさばきが明示されているにも関わらず、人は「悔い改めなかった」と繰り返されています(9:20、16:11)。あれが神から与えられた「経験」であるか、問われているように思います。