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コラム 牧師の書斎から

2015年3月1日 小平牧生師

子どものころ、「アーメン、主よ来たりたまえ」って大声で祈る人の声を聞きながら、「そんな大きな声出さなくても神様は聞こえるから」とか、「この人本当に天国を待ち望んでるのかな。その割にはこの世に執着しとるな」みたいなことを、いつも心のなかで考えていました。本当に性格の悪い、ひねくれた子どもだったのです。でも、正直に言えば今でも「クリスチャンなのに本当に天国を信じているのかなあ」と思うことがあります。愛する人を天に送った時にはあんなに「天国で会おうね」って涙してたのに、今ではどっぷりこの世のことばかり、天国の天もない…(すいませんやっぱり私は性格が悪いです)。

「天国」が、あなたにとって非常に漠然としたものになっていないでしょうか。「永遠のいのち」というのが、森永のエンジェルのように、雲の上で一日中ハープを弾いてるような、ぼ~っとした感じになっていないでしょうか。それでは天国はつくり話みたいですね。しかし、聖書は天国を「のろわるべきものはもはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には御名がしるされている。夜はもはやない。あかりも太陽の光もいらない。主なる神が彼らを照し、そして彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:3-)と書いています。聖書が語る天国は、今のこの世界以上に活動的でエキサイティングな世界です。あなたは、「今の世界が現実で、天国は夢の世界」と感じているかもしれませんが、それはまったく反対です。今のこの世界は天国への準備段階に過ぎません。創世記から黙示録に至る壮大な聖書の物語は、その後に始まる永遠の物語に比べれば表紙の部分です。それは、CSルイスが有名な『ナルニア国物語』の最後の最後で「ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。」と述べているとおりです。