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コラム 牧師の書斎から

2015年6月7日 澤村信蔵

主イエスが語られる言葉は、私たちの常識と正反対のことがあります。例えば、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8章35節)とあります。この「いのち」とは、生活全般と考えていいでしょう。いのちを救うとは、自分のために生活していくことです。神もキリストも持っていない人は、たとえ犠牲的な生活をしていたとしても、自分のために生きています。どこまで行っても自分のために生きていくとすれば、そういう人は、永遠のいのちを失ってしまいます。でも、その反対に、キリストと福音のために生きる人は、いのちを失ったように見えます。また感じます。実際、みことばのために、生活に不便が出てきたり、人間関係が悪くなったりすることもありますよね。もちろん、文字通りの殉教もここには含まれます。でも、そのように歩む人を神様は決して放り出すことはしません。その人は間違いなく永遠のいのちを得るのです。また、主イエスは「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました(使徒20章35節)私たちは多くのものを受けたいと思います。そして、受けることが幸いだと思うのです。でも、本当は与えることこそ幸いなのです。主イエスが言われる通り与えるなら、私たちは神から恵みを頂くことが出来るのです。こんな幸いはありません。でも、自分の常識と違うことを行うには、信仰を必要とします。主イエスへの全き信頼が必要です。そして、この信仰は主イエスを知ることによって初めて可能になります。主が私たちにいのちを与えてくださったと知るからこそ、私たちは主のために人生を喜んでささげて行くことが出来るのです。主が報いて下さる方、与えてくださった方であるからこそ、まず私たちも与えることが出来るのです。私たちは主を知らなければ、信仰をもって、主の言葉を実行することはできません。でも、主を知るなら信仰を働かすことが出来るのです。私たちは主の素晴らしさを今日も知る者とさせていただきましょう。